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あとがき

ちょっと、あとがき、みたいなのを書いてみたいと思います。
本書には、あとがきみたいなのは無いのですが、おまけという事で。

文章的には、ほぼほぼ全文を本ブログにあげてます。
でも、本の方では図をたくさん入れてます。
どうにも文章だけだとピンとこないってあるじゃないですか。
その辺が、本の方をお買い求めいただくと、より理解しやすくなってます。

なんか、欲深い感じで申し訳ないですけど、本を売りたいっていうのが基本ありまして。
こういう形をとらせていただきました。

でもですね、儲けたいって気持ちはそれほど強くないんですよ。
なんかね、本の方が後世に残るんじゃないかと思ってるのもあるんです。
もちろん、相応の利益も期待してますけど、ぼろ儲けしたいとまでは思ってないってことです。

この本って、そんなに売れるとは思ってないんです。
でもね、この本に書かれてることって、たぶん真実なんだろうなって自分では思ってるんです。
(自分では確信してるんですが、そこは奥ゆかしく)

そして、いつか、この本が必要となる時代が来るだろうって。
10年後なのか、100年後なのか、1000年後なのかは、わかりません。
でも、この本の内容って、必要な時代には重要で、すごく役に立つんじゃないかと思ってるわけです。

その時代に向けて、今の時代でもこの本を必要としている人に、少なくてもいいですから手に取っていただき。
そのうちの一冊でもいいから、10年後、100年後、あるいは1000年後に残ってくれたらなって思ってるわけです。

少ししか売れないであろう本ですから、お値段の方も割高になってしまってます。
この点は申し訳ないと思ってはいるのですが、販売数が少ないと、どうしても値段が高kなってしまうんですよね。

最後になりますが、本書に書かれていることが完璧だとは思っていません。
ただし、現代に伝わっている仏教のひどさに比べれば、はるかにマシだと思っています。
とはいえ、ここは違うというような意見を持たれる方は、数多くいるでしょう。
そういう方と議論して、自分は正しいと言い張るつもりはありません。

かといって、ここは違うというご指摘を、すべて受け入れるつもりもなく。
なるほどと納得した意見に関しては、随時、反映させていきたいなと思っています。
ご意見を賜れれば幸いです。

この本って、自分の力だけで書けたなんて、まったく思っていません。
難題にあたっては、なにか不思議な力が教えてくれた。
考えが浅いときは、不思議な力が、もっと考えろと諭してくれた。
そんな感覚が僕にはあるんです。

いつか、この本が役に立てばいいな。
本心から、そう思っています。
そうなったら、僕の人生も、まんざら無駄ではなかったと思えるかもしれません。
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【 13 】 人間とは何か

このブログは、僕の書いた 【如是我言】 という本を売らんがためのブログです。
この本のコンセプトは、現代にブッダがいたとしたら、今の仏教をどう感じるだろうか、です。

さあ、本書の紹介も、いよいよ佳境です。
人間とは何か。なんとも途方もないタイトルをつけたものだと自分でも思います。
しかし、これこそが僕の書きたかったことなのです。

こんなこと真剣に考えている人間が、世界に一人ぐらいいてもいいんじゃないかと、そう思ってます。
こういう事って、声に出すのを躊躇しますよね。
でもね、声を大にして言っちゃっても、そう悪くはないと思うんです。



 人間とは何か

『人間とは何か』。ずいぶんと大それたテーマじゃが、わしなりに感じたところを述べたいと思う。

わしが2500年後の現代に来て、驚いたというか残念に思ったことの一つに戦争がある。

戦争のない平和な世の中が実現しておることに、かすかな希望を持っておったのじゃが、現実は違っておった。

人類の歴史を振り返ってみれば、それは戦争の歴史といっても過言ではないくらいじゃ。

愚かなものじゃな。

恐ろしいことに、戦争を繰り返すほどに、武器は強力になり、戦争の規模も大きくなるばかり。

このままでは、人類は滅びる、いや滅びた方がよいのかもしれんと思うのも無理ない話じゃ。

もし、大規模な核戦争が起きたら・・・
もし、このまま環境破壊が進んだら・・・

人類だけでなく、地球上の生物がすべて滅びる恐れさえある。

『人類は地球にとってのガン細胞なのでは』
そう、ささやかれるのは悲しいが、現状からすれば、『地球のガン細胞』呼ばわりされても、いたしかたあるまい。

真に平和な世の中など、来ることはないであろう。
皆が皆、心の中では、そう思っているに違いない。

そう思うのも無理のない話じゃ。
真の平和が来ることは、ほぼほぼ絶望的じゃと、わしも思う。

その絶望の中に、かすかな希望の灯があるとしたら、それは『悟』しかないと、わしは思うておるのじゃ。

『悟』によって得られる感覚は、『同一感』と『幸福感』じゃともうした。

もう少し詳しく説明すると、『すべての存在に対する同一感』と『穏やかな幸福感』ということになる。
これらの背景には、『対象を特定しない状況でのオキシトシンの分泌』と『ドーパミンを伴わないエンドルフィンの分泌』という、かなり特殊な神経伝達物質の放出現象が存在することは、これまで話したとおりじゃ。

通常、『オキシトシン』の分泌というのは、恋人とか配偶者・子供のような、限られた対象に向けて放出されるものじゃ。

じゃがな、『悟』においては、対象者を特定せず、万人に向けて『オキシトシン』が分泌されるわけじゃな。

人間としては、非常にまれな現象のわけじゃが、自然界には、これと似た現象すなわち、特定の個人を対象としない『オキシトシン』分泌と思われる現象があるのじゃ。

その現象を確認するため、ミツバチの世界を覗いて見ることにいたそう。

わしが注目したのは、ミツバチの巣をスズメバチが襲うシーンじゃ。

ミツバチの巣が、天敵であるスズメバチに襲われるとじゃな、ミツバチは一対一ではかなわんので、集団戦法でスズメバチを撃退しようとするのじゃ。
この集団戦法を『熱殺蜂球』というのじゃが、一匹のスズメバチを多数のミツバチで隙間なく球状に囲んで、中心のスズメバチを蒸し焼きにするという、なんとも凄まじい戦い方なのじゃ。

この戦い方のポイントは、ミツバチの方が、ほんの数度だけじゃが、高温に耐えられるという点なのじゃ。
中のスズメバチは高温に耐えられず蒸し焼きにされるが、ミツバチの方はギリギリ高温に耐えて助かる、というわけじゃな。

とはいえ、死に絶える前のスズメバチに食い殺されるミツバチもおれば、温度が上がりすぎて死ぬミツバチもおるわけで、まさに死を賭しての戦い方なわけじゃ。

ミツバチは、なぜ自分の死をもいとわず、仲間を守ろうとするのであろうか。ここに、わしは注目したのじゃ。

遺伝子が近いとか、様々な理由が考えられておるが、わしは『自己の属する集団』に対する『同一感』なのではないかと思うのじゃ。

通常、人間は個人に対して『オキシトシン』の放出が行われるが、ミツバチでは所属集団に対して『オキシトシン』が放出されるのではないか、ということじゃな。

ミツバチにとって、個体と集団とに境はなく、『同一』であると思っているのではないだろうか。

だからこそ、彼らは自らの死もいとわずに、個体では勝てない敵に向かっていけるのではないだろうか。

人間でも死を覚悟しての戦い方をする場合がある。たとえば『特攻隊』じゃな。

しかし、この『特攻隊』というのが、ミツバチのような『同一感』に基づくものかといえば、ちと違うように感じる。

何と言ったらよいかのう、社会的な風潮や、周囲の人間の無言の圧力に、『葉隠』的な精神規範が相まって、他の選択肢を塞がれたうえでの特攻志願じゃったのだろう。

自分の死が個体としての死を意味しない。
そんな感覚がミツバチの『同一感』にはあるのじゃろう。
じゃから、仲間のために躊躇なく死ねる。

ミツバチやアリのような生物を、社会性昆虫という。

役割分担や、集団生活をおくる昆虫という意味で、社会性昆虫と呼ばれるのじゃろう。

まあ、厳密な定義でいうと、子孫を残さない個体の存在が社会性昆虫の定義みたいなのじゃが、集団としての強いつながりを持った昆虫という見方で、本質を外してはおらんじゃろう。

では、人間はどうじゃろうか。
人間も社会性の高い生物じゃとは思うが、社会性昆虫ほどの社会性の高さは持ち合わせておらんように感じる。

しかしじゃな、『悟』によって対象を特定しないオキシトシンの分泌が生じることで、人間にも社会性昆虫に似た『同一感』が得られると、わしは考えておるのじゃ。

しかもじゃな、『悟』においては、これに『個の境界線の消滅』という現象が加わる。

そうするとじゃな、社会性昆虫が帰属集団に対してのみ『オキシトシン』の分泌がなされるのに対し、『悟』後の人間は、そもそも帰属集団という枠がないために、すべての生きとし生けるもの、もっと言えば生命の有無に関係なく、あらゆる存在に向けて『オキシトシン』が分泌されるわけじゃ。

ミツバチやアリが社会性昆虫であるとするならば、人間は帰属集団に限定された社会性生物という枠を飛び越え、『汎・社会性生物』とでも呼べるような、特定集団に限定されない社会性を持つようになるのじゃ。

ひるがえって考えるに、人間という生物は、愛玩動物を飼うという、他の生物には見られない特性を持っておる。
犬猫などをペットとして飼い、家族同様あるいは家族以上に愛でる。
こんな生物は人間以外におらん。

絶滅危惧種を保護し、生物多様性を維持しようとする。
こんな生物が他にあるであろうか。
他の生物を食することに心苦しさを感じ、ベジタリアンやヴィーガンを生み出すような生物は、人間しかおらん。

自分の産んだ子供でもないのに子育てし、食料を共有し、敵に対しては自らの命をなげうつ社会性昆虫に、人間の社会性は追いついてはいない。

子供たちを共同で育み、食料や収入を平等に分け与える。人間社会においても、ある種の理想に違いない。

しかし、個の概念が強すぎる人間社会においては、絵に描いた餅にすぎない。

この絵に描いた餅を実体化する力が、『悟』にはある。

『悟』により自己という概念を失うということは、自分も他人も同一であると感じるわけじゃ。

自分も他人も一緒。自分の子供も他人の子供も同じ子供というより、子供も含めて自己と同一。

この感覚は、社会性昆虫をも超えている社会性と言えるじゃろう。

この社会を構成する、すべての存在が自己と同一であるならば、そこに敵という存在は、存在しえない。

一般的概念における敵さえも、自己との同一性の範疇にある。

新約聖書の『ルカによる福音書』に『汝の敵を愛せ』という有名な一節がある。

理想としてはわかるが、実践することはとても難しい。

しかしじゃな、『悟』による『同一性』は、この言葉をいとも容易く実践させてくれるのじゃ。
なにせ、一般概念における敵も、自己と同一なのじゃから。

新約聖書の『マタイによる福音書』には『己れを愛するがごとく、汝の隣人を愛せよ』という言葉がある。

これを実践するとしたら『悟』による『同一性』は不可欠なのではあるまいか。

話は変わって、『悟』によって得られる感覚のもう一方、『穏やかな幸福感』を考えてみることにいたそう。

通常、『エンドルフィン』の分泌というのは『ドーパミン』の大量放出を伴うため、強烈な幸福感をもたらす。
これは、ここまで話した通りじゃな。

このため、『エンドルフィン』自体に強烈な幸福感をもたらす作用があると認識されておったわけじゃ。

じゃがな、わしが思うに、『エンドルフィン』自体には過剰な幸福感をもたらすような作用はないように思う。
まあ、わしは神経伝達物質の専門家でもないし、神経伝達物質自体が未解明の部分が多い物質じゃしな。
あくまで仮説にすぎんが、わしの経験から推測するに、『エンドルフィン』単体が及ぼす作用は、穏やかな幸福感ではないかと思っておるわけじゃ。

この穏やかな幸福感じゃが、わしはアリを見ておって、ふと感じたのじゃが、なぜアリは歩くのじゃろうか。

生物の行動というのは、基本的には報酬系と呼ばれる『神経伝達物質』に支配されておる。

目の前に餌があれば、その餌を食べることによって得られる『美味しい』という、ある種の快感を求めて、餌を食すわけじゃ。

この類の快感を報酬と呼び、報酬を得るメカニズムを報酬系と呼ぶわけじゃな。

で、報酬系の代表が『ドーパミン』とドーパミンに反応する受容体の類なわけじゃ。

でじゃな、先ほどのアリの話じゃが、エサという明確な報酬が目の前にあれば、アリも動くじゃろうなと、わしも思う。

じゃが、目の前に餌があるわけでもないのに、ウロウロしとるじゃろ、アリさん達は。

アリっちゅうのは、よう働くで目立つがな、他の動物だって、ウロウロしたり、意味のなさそうな行動をするもんじゃ。

生物の行動が報酬系に左右されるとしたら、明確な報酬が期待できん状況下において、なぜ生物は意味のなさそうな行動をするのじゃろうか。

わしが不思議に思ったのは、この点なのじゃ。

でじゃな、わしが思いついたのが、意味のなさそうな行動にも報酬があるのではないか、ということなのじゃ。

生物は報酬に基づいて行動する。
であるならば、一見すると報酬を期待できなさそうな行動にも、なんらかの報酬があるのではないだろうか。

その報酬が、穏やかな幸福感の正体なのではないかと思うわけじゃ。

仏教には『一切皆苦』という言葉がある。
この言葉の意味は、この世のすべては苦しみであると解釈されている。

言わんとしていることはわかる。
わかるがな、『一切皆苦』を生み出しておるのは、人間自身じゃ。

本来、人間は幸せな生き物なのじゃ。
生まれながらにして、穏やかな幸福感に包まれておるのじゃから。

それをな、自ら『種子』を作り出し、自らを苦しめている。

旧約聖書に『エデンの園』の話があるじゃろ。
アダムとイブはエデンの園で、なに不自由なく暮らしておったわけじゃが、禁を破って『禁断の果実』を食べてしまったゆえ、エデンの園を追放されたという、あの話じゃな。

禁断の木の実を食す前のアダムとイブは、そりゃあ幸せじゃったろうな。
生まれながらにして幸せというやつじゃな。

ところが自分の意思で禁断の木の実を食べ、エデンの園を追い出されたわけじゃ。
生まれながらにして幸せじゃったものを捨て、自らの手で、自らを苦境に追いやったわけじゃ。

どうじゃな、『一切皆苦』とエデンの園の話は、似ていると思わんかな。
生来の幸せと、それを自ら捨てて苦しむ。構造的には一緒ではないかな。

経験則という言葉があるな。
経験則というのは、過去に経験したことから導き出された法則という意味じゃが、『種子』というのも無意識の経験則といえるじゃろう。

経験則という場合、ある意味、有用な知識として用いられると思う。『種子』の良い側面じゃな。
良い側面があるから、『種子』を生むというメカニズムが人間に備わったわけじゃ。

さて、エデンの園の話の禁断の果実は、別名なんと呼ばれておったかな。
それは、『知恵の樹の実』じゃったな。

人間は、知恵の樹の実を食べ、裸を恥ずかしいと感じるようになり、局部をイチジクの葉で隠すようになった。

裸は、ただの裸にすぎん。
裸を恥ずかしいものと認識させるものがあるとすれば、それは『種子』しかあるまい。

『種子』は有用な知識でありながら、人間を苦しめる根源でもある。
禁断の果実は、人間に善悪の判断をもたらしたが、エデンの園からの追放をももたらした。

なんとも似ているなと、わしは思うのじゃ。

人間とは何か。
人間とは、生まれながらにして幸せな生物。
これが『仏の法』、そして旧約聖書、すなわちユダヤ教に共通した教えなのではないだろうか。

そして、人間とは、『汎・社会性生物』すなわち、種の垣根を越えて、仲間だと思うことが出来る、地球上で唯一の存在なのではなかろうか。

心理学に『ストロークバンク』という考え方があるようじゃ。
この『ストロークバンク』というのを説明すると長くなるので細かくは説明せんが、まあ簡単に言うとじゃな、心すなわちストロークバンクが『幸せに満たされていると、他者に対して優しくなれる』ということじゃな。

人間が生まれながらにして幸せな生物であるということは、生まれながらにして他に対する優しさを持っているということじゃ。
そしてじゃな、その優しさの対象が、仲間や身内に限定されているのではなく、見ず知らずの人や異種生物、生物に限らず、ありとあらゆるものに対しての優しさを持っている、という事なわけじゃ。

どうじゃな。この話を聞いても、人間とは『地球にとってのガン細胞』じゃと思うかな。

わしはな、人間はガン細胞どころか、地球にとって必要な生物なのじゃと思う。

 四無量心(四梵住)

さて、ここまで『人間とは何か』というテーマで話を進めてまいったが、そこで得た結論は『人間とは、汎・社会性を持った、生まれながらにして幸せな、心優しき生物』という事であった。

この結論を見ていたら、『四無量心』という言葉が浮かんできたのじゃ。

『四無量心』というのはじゃな、種々の仏典に散見される言葉なのじゃが、これまた何を指す言葉か、なかなかに難解でな、徳目だの修行法だの瞑想法だの、様々に言われておって、これという答えの見つかりづらい言葉のなじゃ。

『四無量心』を構成するのは慈・悲・喜・捨の四つなのじゃが、慈は『安楽を与えたい』、悲は『苦痛を取り除きたい』、喜は『他の幸せを喜ぶ』、捨は『すべてに対する平等さ』を表しておってな、この四つを合わせて考えていくとじゃな、わしがここまで話してきた『悟』の向こう側で気づいた『人間の本質』と同じことを表していることに気づいたのじゃ。

つまり、人間の本質は、『四無量心』の慈・悲・喜・捨にあるという事じゃ。

そしてじゃな、興味深いことに、この『四無量心』は、別名『四梵住』とも呼ばれておってな、この『四梵住』とはブラハヴィハラというてな、意味は『梵天の住むところ』なのじゃ。

これの意味するのは、梵天に会う方法とか、梵天の住む世界に転生する方法であると言われておるのじゃが、本当の意味はじゃな、『悟』による個の境界消滅により体験する『梵我一如』の境地を表しておるのじゃろう。

つまりじゃな、『四梵住』によって梵天に会えるのではなく、梵天と一体化することによって『四梵住』すなわち『四無量心』という人間の本質を知る、ということじゃ。

さて、この『四無量心』じゃが、慈・悲・喜・捨の四つを統合すると、一切衆生の救済という大乗仏教的な考えに至るわけじゃ。

大乗仏教の門徒からすれば、『やはり大乗仏教の方が優れている』と結論付けたいであろうが、ことはそう単純ではない。

自己の『悟』を求めずして、なぜ一切衆生の救済などと口にできるのであろうか。

一切衆生の救済。素晴らしい言葉ではあるが、そこに自己の『悟』がなければ、薄っぺらな言葉にすぎん。

一切衆生の救済を口にするなら、その前に自己の『悟』をまず求めるべきであろう。

さすれば、自ずと『四無量心』に到達し、一切衆生の救済という考えが芽生えてくるのじゃ。

そしてな、『悟』を経て口にする一切衆生の救済という言葉は、重みを伴った真の言葉となるのじゃ。

まず自己の『悟』を求め、これに専念する。
このアプローチは、じつに上座部仏教的じゃ。
そして、その延長線上には、大乗仏教的な一切衆生の救済が待ち受けておるわけじゃ。

どうじゃな、大乗仏教と上座部仏教の、どちらが優れているかという議論が無意味に思えてきたのではないかな。

 『仏の法』は宗教にあらず

『仏の法』というのは、宗教ではないと、わしは思っておる。

『仏の法』に、あがめるべき神はいない。
『仏の法』に、神との契約はない。
神との契約がないのだから、守るべき戒律もない。

しかしな、神の存在を否定しているわけではないのじゃ。

毘盧遮那仏も大日如来も阿弥陀如来も否定してはおらんし、そういう意味で仏教各宗派を否定してはおらん。
ヒンズー教における梵天すなわちブラフマンも否定しておらんし、ユダヤ教における創造主も、キリスト教におけるイエス様も、イスラム教におけるアラーの神も否定してはおらん。

否定どころか、じつを言えば、誰よりも肯定的に神の存在を捉えておる。

わしはな、どの宗教を信仰するかは、個人の自由じゃと思っておる。
自分の信ずる神を、今のまま信じ続けて何も問題ないと思っておる。

どの宗教も世界を良い方向に持っていこうという点は共通していると信じておる。
そういう意味では、どの宗教を信じても、そう悪いことはあるまい。

じゃがな、宗教には一つ問題があると思っておる。
それはな、どう生きるべきかは提示しておるが、その生き方を、どう実現するかは提示されていないという事じゃ。

目標は与えられたが実現方法は与えられなかった、という事じゃな。

わしは『仏の法』こそ、宗教に欠けている実現方法なのじゃと思っておる。

すなわち、宗教と『仏の法』とは補完関係にあり、『仏の法』には奉ずる神も戒律もないゆえ、既存宗教との親和性が高いと思っておるのじゃ。

そして、『悟』の向こう側には神の存在がある。
この神の存在は、信じなさいと言われて信じた神の存在ではなく、体験からくる神の存在である。

この差は、神の存在を疑う心を生じさせるか否かの差として現れる。

体験からくる神の存在感に疑いの余地はない。

神から注がれる絶対的な愛。
『悟』は、これを疑いようのないものとして心に刻み込む。

そのうえで、神と自分と、その他のすべては同一だと『悟』は、実感としての気づきを与えてくれる。

仏教は仏教として、ヒンズー教はヒンズー教として、ユダヤ教はユダヤ教として、キリスト教はキリスト教として、イスラム教はイスラム教として、神道は神道として、その教義を変えることなく、教義を実践するためのツールとして『仏の法』を有効に活用すべきだと、わしは考える。

無神論者もまた、『仏の法』の実利面に目を向け、自己の精神的なケアのために有効活用できると考える。

これらの結果、どの宗教に属するかは別に、すべての人々が、『悟』ったとするならば、その世界は真に平和な世の中となるであろう。

世界に真の平和が訪れんことを願い、ここに『如是我言』を書き残し置く。

【 12 】 神経伝達物質

このブログは、僕の書いた 【如是我言】 という本を売らんがためのブログです。
この本のコンセプトは、現代にブッダがいたとしたら、今の仏教をどう感じるだろうか、です。

さて、ここからは『悟』というものを少し科学的に考察していこうという試みです。
自分で言うのもなんですが、なかなか良い切り口かなと思っています。
どうぞご一読を。




 神経伝達物質

『神経伝達物質』とか『脳内ホルモン』というのを聞いたことがあるじゃろうか。
人間が何か行動を起こす際には、この『神経伝達物質』とか『ホルモン』ちゅうのを放出して、脳を含む体の各所に指令を出しておるわけじゃな。

たとえば、眠くなるのは『メラトニン』というホルモンが分泌することで引き起こされる、催眠作用によるものと言われておる。
まあ、『神経伝達物質』とか『ホルモン』ちゅうのは、こういう類の体内物質を指す言葉じゃと理解してくれればよい。

さて、『神経伝達物質』と『ホルモン』の違いは、『神経伝達物質』が文字通り神経細胞間の情報の受け渡しに利用されるのに対し、『ホルモン』の方は血流に乗って体内各所のホルモン受容体へと指令を伝達するわけじゃ。つまりじゃな、神経伝達物質は近距離通信。ホルモンは遠距離通信ちゅうことじゃな。

伝達距離が違うだけで、なにがしかの指令を伝達するという本質は違わんちゅうことじゃ。

格闘技の試合とかで、ケガをした選手が『アドレナリンが放出されていたので痛みを感じませんでした』とインタビューで答えているのを聞いたことがないかな。
この『アドレナリン』ちゅうのも『ホルモン』の一種でな、『ホルモン』でありながら『神経伝達物質』としても作用するのじゃ。

『アドレナリン』ちゅうのは、ケンカとかの類で放出されるのじゃが、捕食行動やテリトリーを守ったり、異性を奪うという行動にも関係しておるわけじゃな。

たとえばじゃ、獲物が目の前に現れたとしよう。
その獲物を狩ろうとすると『アドレナリン』が分泌されるわけじゃな。

『アドレナリン』によって、心臓の鼓動を速め、脳内に興奮状態を作り出し、戦闘態勢を整えるわけじゃ。
敵からの攻撃も予想されるので、皮下の血管を収縮させ、出血量を少なくするという防御態勢も同時に整えるわけじゃな。

そして、いざ戦闘となった際には、『アドレナリン』によって痛みを遮断するわけじゃ。

これが格闘技の選手が試合後のインタビューで答えた、『アドレナリンが放出されていたので痛みを感じませんでした』という言葉に表れておるわけじゃ。

『アドレナリン』には『前駆体』というのがあってな、この『前駆体』というのは『アドレナリン』を合成する際の材料となる物質のことなのじゃが、『アドレナリン』の場合は、『ノルアドレナリン』という物質が『前駆体』なのじゃよ。

この『ノルアドレナリン』ちゅうのも、戦闘に関係した『ホルモン』でな、『アドレナリン』が肉体的な戦闘に関係するのに対し、『ノルアドレナリン』は精神的な戦闘に関係しておるのじゃ。

獲物を狩る際には、まず獲物を認識し、『旨そうだな、こいつを今晩のオカズにするか』と考えるわけじゃな。この実際に行動を移す前の、精神的な戦闘の段階で放出されるのが『ノルアドレナリン』じゃ。
でな、実際に獲物を狩るという行動を起こす際に放出されるのが『アドレナリン』ということじゃな。

精神的な戦闘時に放出される『ノルアドレナリン』を材料として『アドレナリン』が合成されるというところが、合理的というか理に適っとるのう。

『ノルアドレナリン』にも前駆体があってな、それは『ドーパミン』ちゅう物質なのじゃが、この『ドーパミン』ちゅうのはじゃな、食事などの欲望が満たされた時に放出されるのじゃ。

欲望が満たされる以外にも、『ドーパミン』が放出されるタイミングがあってな、それは『欲望が満たされると期待される』タイミングなのじゃ。

そうじゃなあ、縄文人あたりを想定してみようかのう。
目の前をイノシシが横切ったといたそう。
横切ったイノシシを目にしたとたん、今夜の夕飯はイノシシだと想像して、ヨダレが出だした。
獲物を目にして『ドーパミン』が出たわけじゃな。

そんなことを考えておったら、イノシシと目が合ってしまった。
イノシシは敵意をむき出しにし、来るなら来いと言っているかのようじゃった。
イノシシは思いのほか大きく、確実に仕留められるようなサイズではなかった。

狩るか、やられるか。
挑むか、逃げるか。
ここは逃げるわけにはいかない。愛する家族のために。

戦う決意を固めた縄文人は、『ノルアドレナリン』を分泌して臨戦態勢へと移行するわけじゃな。

縄文人は弓を手にとり、イノシシを仕留めんとしたが、イノシシは弓を引き絞る猶予を与えてはくれなかった。

突進してくるイノシシ。
弓矢では間に合わない。
腰に下げた石斧を手にし、迎え撃つ縄文人。

『アドレナリン』が一気に放出される瞬間じゃな。
まあ、こんな感じで『ドーパミン』『ノルアドレナリン』『アドレナリン』が順繰りと放出されるわけじゃ。

ここで注目すべきは、イノシシを目にしてヨダレを流した瞬間じゃ。
なぜイノシシを目にしてヨダレが出たのじゃろうか。
それは、『種子』の影響なのではなかろうか。

戦いというリスクを冒してまで、獲物を得んとするのは、よく育った『種子』を必要とするのではないだろうか。

そう考えるとじゃな、『ノルアドレナリン』も『アドレナリン』も『種子』の影響下にあると思えるのじゃ。

『ドーパミン』『ノルアドレナリン』『アドレナリン』らを神経伝達物質の中でも『興奮性・神経伝達物質』と呼ぶのじゃが、これらの作用を打ち消す性質をもった『抑制性・神経伝達物質』というのもあってな、代表的なものとしては『セロトニン』とか『GABA』というのがある。

『ドーパミン』『ノルアドレナリン』『アドレナリン』らと『セロトニン』『GABA』らの関係性は、自動車のアクセルとブレーキの関係に例えられる。

イノシシを見つけて興奮した。
『ドーパミン』の放出じゃな。
でも、よくよく考えたら食料は十分にある。ここは、イノシシと戦う必要はない。落ち着こう。
今度は『セロトニン』を放出する番じゃな。

さて、そろそろ問題に戻るとしよう。
『神経伝達物質』の話をしたのは、『悟』に『掉挙』というのが関係する理由と、『掉挙』の反対が存在しない理由はなぜかという疑問を解くためじゃったな。

『掉挙』というのは、心が昂り頭に血が上った状態じゃから、冷静さを失った興奮状態ということじゃな。

これを『神経伝達物質』的に考えるとじゃな、『掉挙』というのは『ノルアドレナリン』が放出された状態じゃな。

『種子』の影響を受けて『ドーパミン』が放出される。
その『ドーパミン』を材料として、『ノルアドレナリン』が合成される。これが『掉挙』じゃな。

では、『悟』った後の『種子』なき心において、『ドーパミン』や『ノルアドレナリン』が放出されることがあるのじゃろうか。
矛盾するようじゃが、『種子』なき心においても、『ドーパミン』や『ノルアドレナリン』は放出されうる。

体に必要とされる成分を食事として体内に入れれば、『ドーパミン』は放出される。これは、生物が生まれもって備えた報酬系としての仕組みじゃからな、『種子』がなくとも生物として最低限必要な『ドーパミン』放出は生じる。
ただし、この『ドーパミン』放出の結果が『種子』の生育にフィードバックされないことが肝要なのじゃ。

では、『種子』なき心において『ノルアドレナリン』は放出され得るのか。
こちらも放出される場合がある。

ただし、『ノルアドレナリン』の放出は受動的なケースに限定されてのものである。
能動的すなわち自らの欲求によって放出されるケースは、あり得んということじゃ。

通常の日常生活において、臨戦態勢をとらねばならんケースなど、ほとんどあるまい。
自動車が運転を誤って突っ込んできたとか、山中で熊に出会ったとか、一生に一度あるか無いかの、極々稀なケースじゃな。

こういう場合は、自己防衛本能として『ノルアドレナリン』が出るであろうし、熊と格闘となると『アドレナリン』が出るであろう。
これは実に自然なことじゃ。
『悟』っていたとしても、これは変わらんじゃろう。

じゃがな、誰かを恨んで殺害を企てたり、元恋人にストーカー行為を繰り返すなど、能動的な『ノルアドレナリン』放出は、『悟』った者には、あり得ん話じゃ。

受動的な『ノルアドレナリン』放出が、例外的ケースを除いてあり得んのなら、『ノルアドレナリン』放出すなわち『掉挙』が起こるはずもない。

さて、そろそろ『神経伝達物資』が、『悟』とどう関係するかを、まとめるといたそう。

まず『五下分結』の『貪欲』と『瞋恚』じゃが、これらは『種子』そして『ドーパミン』と関係しておるわけじゃな。

お次の『五上分結』の『掉挙』は、肥大化した『種子』そして『ノルアドレナリン』に関係しておるわけじゃ。

『ドーパミン』『ノルアドレナリン』『アドレナリン』らは『興奮性・神経伝達物質』と呼ばれておるわけじゃが、『種子』の消滅によって興奮することが無くなったわけじゃから、『ドーパミン』『ノルアドレナリン』『アドレナリン』が消え去った脳というのが生じたわけじゃ。

この状態というのが、どの程度珍しい状態なのか定かにはわからんが、極めて特異な状態じゃと、わしは思っておる。

何年も座禅して、無念無想の境地を目指しておっても、なかなか雑念が消えるものではない。
ましてや、なんの修行もせずに平々凡々と日常を送る中で、無念無想の境地、言葉を変えれば『興奮性・神経伝達物質』の一切ない心の状態など、垣間見ることはできんじゃろう。

『ドーパミン』『ノルアドレナリン』『アドレナリン』らの『興奮性・神経伝達物質』が一切ない、完全なる心の静寂の世界に見える風景とは何か。
それはな、都会の中に湧き出る清水のようなものなのではないかな。

都会の片隅に湧き出る清水に誰も気づきもしない。
自動車の騒音、行き交う人々の話し声。上空を通過する飛行機の音に、犬猫の鳴き声。都会の日常は喧騒にあふれかえっている。

もし、これらの騒音が一切なくなったとしたら、そこには、何が聞こえるのであろうか。
喧騒にかき消されていた清水の湧き出る音が聞こえてくるのではないだろうか。

地面から湧き上がる水が、空気をはらみながらコポコポと小さな音を立てているのに気づくであろうか。
湧き出た水が、小さな小さな水の流れとなり、チョロチョロと音を立てるのが聞こえるのではなかろうか。

『ドーパミン』『ノルアドレナリン』『アドレナリン』らの『興奮性・神経伝達物質』が一切ない、完全なる心の静寂の世界に見える風景というのは、騒音の消えた都会のようなものであろう。

普段は『ドーパミン』『ノルアドレナリン』『アドレナリン』にかき消されて感じられない『神経伝達物質』が、そこにはあり、これが『悟』によって、その存在に気づけるようになる。あたかも清水の音に気付くかのように。

では、心の静寂によって浮かび上がってくる『神経伝達物質』とは、具体的に何なのであろうか。
それは、『悟』によって生じる『幸福感』と『同一感』から推察するに『エンドルフィン』と『オキシトシン』なのではなかろうか。

『エンドルフィン』は、『脳内麻薬』と呼ばれ、強烈な『幸福感』を与える脳内物質として知られている。
わしの感覚からすると、『悟』における幸福感は、非常に穏やかなもので、『エンドルフィン』がもたらす強烈な幸福感とは異なるように感じる。

じゃがな、『エンドルフィン』が、どう作用するかを考えると、強烈な幸福感が穏やかなものに変わっていくさまが見えてくるのじゃ。

『エンドルフィン』が強烈な幸福感をもたらすのは、『エンドルフィン』が『ドーパミン』放出を助長するからなのじゃ。
『ドーパミン』放出は、『GABA』によって抑制されるのじゃが、『エンドルフィン』は、この『GABA』の作用を抑制する。
なんかややこしいが、要は『エンドルフィン』は『ドーパミン』放出を助長することによって強烈な『幸福感』を生じさせておるわけじゃな。

では、そもそも『ドーパミン』が放出されないような状況下において『エンドルフィン』放出されたら、どうなるのじゃろうか。
『エンドルフィン』が直接働くのは『ドーパミン』ではなくて『GABA』の方じゃったな。

『エンドルフィン』が『GABA』の放出を抑制する。
この結果、『GABA』の『ドーパミン』抑制が解除される。
そうすると、通常じゃったら『ドーパミン』が多量に放出されるはずなのじゃが、そもそも『悟』によって『ドーパミン』は放出されないようになっておるわけじゃ。

『ドーパミン』が放出されず『エンドルフィン』のみが放出されるという、世にも稀な現象が、ここに成立したわけじゃ。

『ドーパミン』の大量放出を伴わない『エンドルフィン』のみが引き起こす『幸福感』というのは、どんなものじゃろうか。
脳内麻薬と呼ばれるほどの強烈な『幸福感』ではなく、もっと穏やかな『幸福感』に包まれるのではないだろうか。

では、お次の『オキシトシン』について考察してみよう。
『オキシトシン』は、愛情ホルモンと呼ばれるように、母子や恋人間での愛情に関与しているホルモンじゃ。

『オキシトシン』は、出産時に大量に分泌されることが知られており、母親がわが子に深い愛情を持つようになるのは、この『オキシトシン』の作用だと言われている。

『オキシトシン』という脳内物質の作用は、仲間意識に基づく親愛の情なのであろう。
親子や恋人という、極々親しい関係でしか放出されないし、放出されるような間柄では、『わが子の命を助けるためなら、自分は死んでもかまわない』という感情さえ生じさせる。

自己の生命を犠牲にしてでも、誰かを助けたいという感情は、よほど関係性が深くないと生じない感情であろう。
そのような感情は、自己との同一性が非常に高い場合のみ生じるのではないだろうか。

では、通常は、とても親密な間柄に対してのみ放出される『オキシトシン』が、対象が存在しない状態で放出されたら、どうなるのじゃろうか。
すべての存在に対して親愛の情を抱くのではないだろうか。

では、そろそろ『悟』というものの正体を、まとめてみるといたそう。

まず、『種子』の消滅によって、『興奮性・神経伝達物質』である『ドーパミン』『ノルアドレナリン』『アドレナリン』の放出が極限まで低下する。
『興奮性・神経伝達物質』の放出が極限まで低下すると、『興奮性・神経伝達物質』の陰に隠れていた微量の『エンドルフィン』と『オキシトシン』が表面に浮かび上がってくる。

『エンドルフィン』は、『ドーパミン』放出を伴わないので、穏やかな『幸福感』をもたらす。
『オキシトシン』は、特定の対象に対して放出されないので、すべての対象に対して親愛の情を抱く。
これに『種子』の消滅による『自己というものの崩壊』が合わさり、『同一感』というものが生じる。

なんとなく、つじつまが合うように思うのじゃがな。

『オキシトシン』というのは、なかなか厄介な物質でな。
対象者に対しては親愛の情を抱くのじゃが、同時に『嫉妬』も抱かせる物質なのじゃ。
『オキシトシン』に似たような物質に『パソブレッシン』というのがあるのじゃが、これなどは『囲い込み』という感情を抱かせてしまってじゃな、親愛の情を抱いた対象者を他者に取られないよう、競合関係にある他者を殺すという物騒な行動をとらせたりもするわけじゃ。

『悟』という特殊な状況下では、対象者が特に存在しない状況で『オキシトシン』や『パソブレッシン』が放出されるわけじゃな。
そうするとじゃ、『オキシトシン』や『パソブレッシン』の負の側面である『嫉妬』や『囲い込み』が生じない、純粋な親愛の情を抱くわけじゃ。

どうじゃな、なぜ『悟』すなわち『応供果』の条件である『五上分結』に、『掉挙』という心が昂ぶり頭に血が上った状態が入っておるのか、その意味がわかったのではないかな。
そして、『掉挙』というのが『悟』の本質と真逆の状態であることも理解できたのではないかと思う。
『掉挙』の反対の状態が『五上分結』に入っていないのは、その状態が『悟』そのものだからじゃ。

【 11 】 五上分結・五下分結

このブログは、僕の書いた 【如是我言】 という本を売らんがためのブログです。
この本のコンセプトは、現代にブッダがいたとしたら、今の仏教をどう感じるだろうか、です。

本章のタイトルとしては五上分結・五下分結としましたが、悟りへのプロセスをもう少し補足説明しようというのが、本章ですね。



『悟』への道筋の説明は、これでしまいじゃ。
あとは、『悟』とは何かを、もう少し掘り下げていくとしよう。

わしは、これまで、『悟』とは何かを、いくつかの表現で説明してまいった。

『悟』とは、『とめどなく湧き出ずる幸福感』と『自己と他者との境目が消え、他人も動植物も己も、すべて、すべてが一体であるという同一感』であると説明したこともあれば、『悟』とは、『自分の心を知ること』であると説明したこともあった。

また、『悟』とは、自己の『仏性に出会う』ことであると説明したこともあった。

このあたりの説明を、もう少し掘り下げて具体的に述べていきたいと思う。

まず、『悟』とは『自分の心を知ること』であるというのは、ここまでの説明で納得してもらえたのではないかな。

自分の心を知り、自分の心に『種子』という余分なものがあり、これを取り除くことによって『苦』から解放される。これを『悟』と呼ぶわけじゃ。

まあ、表面的には、この説明の通りじゃし、これに関し疑問を抱く者もいないと思う。

では、『悟』った結果として訪れる二つの感情、『幸福感』と『同一感』とは、何なのであろうか。
そして、これらの感情と『種子』が消失したこととの関係はあるのか。

結論を言えば、『幸福感』『同一感』と、『種子』の消失には関係があるのじゃ。
この関係性を説明するには、『四向四果』のより詳細な説明と、『脳内伝達物質』の説明をせねばならん。

 五上分結・五下分結

まずは、『四向四果』の説明を、以前より詳しく行うといたそう。

『四向四果』というのは、『預流向』『一来向』『不還向』『応供向』の『四向』と、『預流果』『一来果』『不還果』『応供果』の『四果』からなる、『悟』へのプロセスを表したものであったな。

この『四向四果』のうち『四向』は細分化というか具体化というか、まあ、要件をもう少し細かく定義できるっちゅうわけなのじゃ。
これを『五上分結』『五下分結』というのじゃ。

『五上分結』『五下分結』と『四向四果』の関係性を説明するとじゃな、『預流果』に至るには『有身見』『戒禁取見』『疑』の三つを消さなければならんのじゃ。
これは逆説的に言うと、『預流向』では『有身見』『戒禁取見』『疑』の三つを消す努力をしなければならんということじゃな。

で、この『有身見』『戒禁取見』『疑』の三つを簡単に説明するとじゃな、『有身見』というのは、確固たる自己という存在があるとの誤った見解と言われておる。
確固たる自己なんぞというものは幻で、すべては自分自身が作り出した『種子』による影響で、自分で作り出した『種子』なら壊せるというのが『仏の法』の基礎になっておる。

『有身見』ちゅうのは、この基礎中の基礎がわかっておらんというわけじゃから、『悟』の入り口にも到達しておらんというわけじゃな。

お次の『戒禁取見』は、戒や禁に執着する誤った見解と言われておる。
戒や禁に執着するというのは、言葉を変えれば、戒律を守れば『悟』れるということじゃろう。
何度も申したが、戒律と『悟』とは、なんの関係もない。
これもまた、『悟』の入り口にも到達しておらんということじゃな。

最後の『疑』というのは、他の考えを受け入れられない心の状態ということなのじゃが、頭から『仏の法』を否定されては、わしとても救えんということじゃな。
まあ、かように、『預流向』を『有身見』『戒禁取見』『疑』の三つに分解できるというわけじゃ。

分解してみると『預流向』で行うべきことが明確になるであろう。
また、分解によって『預流果』の要件というのも明確になるのじゃ。

さて、お次の『貪欲』と『瞋恚』じゃが、『貪欲』というのはプラスの感情の『種子』が肥大化した状態で、好きで好きで、どうしても手に入れたい、という類の感情じゃな。

『瞋恚』ちゅうのは、その逆でマイナスの感情の『種子』が肥大化した状態すなわち、嫌いで嫌いで見るのも嫌、という類の感情じゃ。

つまりじゃな、好き系の『種子』と嫌い系の『種子』を徐々に弱めていくのが『一来向』ですべきことというわけじゃ。

で、『貪欲』と『瞋恚』が完全に消え去ると『不還果』になるというわけなのじゃが、この説明には、わし的には異論がある。

わしとしては、『貪欲』と『瞋恚』が一時的に消え去った状態を『一来果』。永久的に消え去った状態を『不還果』と定義したいのじゃが、まあ、とりあえず良しとしよう。

でじゃな、『不還果』から『応供果』へ向かうには『五上分結』の『色貪』『無色貪』『慢』『掉挙』『無明』が消え去らねばならないとされておる。
ということはじゃな、『応供果』すなわち『悟』というのは、『色貪』『無色貪』『慢』『掉挙』『無明』の五つが消え去った状態ということじゃな。

ここに『悟』によって得られる『幸福感』『同一感』とはなにかを解き明かす第一のヒントが隠されておる。

まずは『色貪』『無色貪』『慢』『掉挙』『無明』の説明をするとしよう。

『色貪』というのは、『色』すなわち物質への執着心のことじゃ。

お次の『無色貪』というのは、『無色』すなわち非物質への執着心ということじゃな。
非物質ということは精神的という意味じゃな。

で、『慢』ちゅうのは、悟ったという慢心じゃ。
『悟』なんちゅうのは、手順さえ踏めば誰でも『悟』れるわけじゃ。
じゃからな、なんも特別なことじゃありゃせん。
『悟』った『悟』ったなどと喜んでおるのは、『悟』ってないからじゃという事じゃな。

お次は、一つ飛ばして『無明』じゃ。『無明』というのは、悟りという明りの見えない暗闇の状態じゃな。
『悟』ったのじゃから『無明』の闇から脱しておるのは、当たり前じゃ。

で、最後は『掉挙』じゃ。『掉挙』というのは、心が昂ぶり頭に血が上った状態と言われておる。

どうじゃ、何か違和感を覚えんか。
『色貪』『無色貪』『慢』『無明』の四つは、まあ、そうじゃろうなと思えるじゃろ。
当たり前というか、そりゃそうじゃろうなと誰しも思うのではないかな。
ところがじゃ、ここに『掉挙』というのが入ってくると、なんとなく他の四つとの違いを感じるのじゃ。

そりゃ、『悟』ったら、心が昂ったり、頭に血が上ったりせんじゃろう。
じゃがな、『掉挙』が入るのじゃったら、逆の感情の、落ち込むとか入ってきそうなものじゃが、なぜ興奮状態だけが入っとるのじゃろうか。

それはな、この『掉挙』というのが、『悟』の本質と深くかかわっておるからなのじゃよ。

では、どう深くかかわっているのか。
それを説明するには『神経伝達物質』の話をせねばならんのじゃ。

【 10 】 三転十二行相

このブログは、僕の書いた 【如是我言】 という本を売らんがためのブログです。
この本のコンセプトは、現代にブッダがいたとしたら、今の仏教をどう感じるだろうか、です。

さてさて、これも難敵、三転十二行相です。
もうね、難敵だらけですよね。
本当、苦労したんですよ、この本を書くのに。

苦労が報われればいいんですけどね。




 三転十二行相

さてさて、七科三十七道品も終わったので、『仏の法』も残すは『三転十二行相』のみとなったのう。
この『三転十二行相』は、四諦を三回まわすという意味じゃと言われておる。
一回転目が『示転』、二回転目が『勧転』、三回転目が『証転』と呼ばれておって、『示転』は四諦を知ること、『勧転』は四諦を実践すること、『証転』は四諦を証明することと言われておる。

『仏の法』のカリキュラムとしては、四諦を知らしめて、実践させて、確認させるというのは、悪くないようにも思える。

しかしじゃな、わしが『悟』の後、最初の弟子となる五人の修行者に行った説法、いわゆる『初転法輪』において語ったとされる『三転十二行相』とは矛盾しておると感じんだろうか。

まずは、語ったとされる『三転十二行相』を確認するといたそう。

『私は四諦を三転十二行相をもって如実智見が生じるまでは悟ったとは宣言しなかった。私は四諦を三転十二行相をもって如実智見が生じたゆえに悟ったと宣言した』

どうじゃな、矛盾を感じんかな。

通説によると、『三転十二行相』というのは、『四諦を知らしめて、実践させて、確認させる』という、師匠が弟子に対して『仏の法』を教える際の手順じゃと思われる。
しかしじゃ、『初転法輪』で語った言葉からすると、『三転十二行相』というのは、『悟』の確証を得るために、ブッダ自らが自らに対して行った確認作業なのだと思うのじゃが、違うかな。

わしはな、『悟』を論理的に追及して理論構築をし、その理論を実践して『悟』に至ったわけではないのじゃよ。
偶然にも『悟』に到達し、理論構築をしたのは『悟』った後からなのじゃ。
結果が先にあり、理屈は後付けした、ということじゃ。

わしが『悟』った瞬間というのはじゃな、正直言うと、それが『悟』と呼べるものなのか、わからんかったのじゃ。
それは、それは、幸せな気分でな、それこそ天国にいるような心地よさであった。
心配事や悩み事、ありとあらゆる苦悩は一瞬にして吹っ飛んだのは間違いない。
じゃが、これが『悟』と呼べるかというとじゃな、確証を持てなかったのじゃ。

なぜ、わしは確証を持てなかったかというとじゃな、まずは『悟による幸福感が、なぜ沸き起こったのか』、その理屈が、わしにはわからんかった。
わしだけに起こった現象なのか、誰にでも普遍的に生じる現象なのか。
この現象によって、すべての苦を滅するという目的は、達成できたのか。
理屈がわからんと、確証を持てんわけじゃな。

そこでじゃな、『悟』の後、わしはまず理論構築を試みたわけじゃ。
この理論構築によって確立されたのが、いわゆる『四諦』というやつなのじゃ。
『四諦』の確立、これが『三転十二行相』の一回転目じゃ。

『苦諦』すなわち苦の定義によって、すべての苦しみから解放されるのかを検証しようとしたわけじゃな。
目的の明確化と、これによる網羅性の確認ちゅうやつじゃ。
これが一回転目の一行相目にあたるわけじゃ。

まあ、こんな感じで、『集諦』『滅諦』『道諦』と一回転目の理論構築が進んでいったわけじゃな。

一通り、理論構築ができたところで、次に取り掛かったのが、『四諦』に対する具体的アプローチを定義していったわけじゃ。
『苦諦』に対しては、『苦しみ』というものを完全に理解しなければならないし、『集諦』に対しては、『欲望』は捨てなければならない。
『滅諦』に対してのアプローチは、『欲望の根』すなわち『種子』を取り去らねばならない。
『道諦』に対しては、『八正道』あるいは『七科三十七道品』という『悟』への具体的な道筋を完成させなければならん、ということじゃ。
これが『三転十二行相』の二回転目じゃな。

このようなアプローチ方法を定義した後、自分の身体を使って有効性を確認したり、被験者を頭の中に描いてシミュレーションしてみたり。
これらを何度も何度も繰り返しながら『四諦』をブラッシュアップしていったわけじゃ。

そしてじゃな、いよいよ完成したと得心がいったところで、わしは自らが『悟』ったと思えたわけじゃ。
これが『三転十二行相』の三回転目じゃ。

さて、わしが最初の弟子となる五人の修行者に語った、『私は四諦を三転十二行相をもって如実智見が生じるまでは悟ったとは宣言しなかった。私は四諦を三転十二行相をもって如実智見が生じたゆえに悟ったと宣言した』という言葉の意味が、わかってもらえたであろうか。

わしの『仏の法』は、単なる思いつきや、偶然の発見による浅きままの教えではない。
矛盾なき理論構築をし、その有効性を確認したうえで、これこそ『悟』であり『悟』に至る道であると確信したからこそ価値があるのじゃ。
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